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【対談】技術は、事業になってこそ報われる ─ 研究と経営をつなぐAGCの「両利きの経営」

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多くの製造業において、研究開発や知財部門は「事業をつくる力」を求められています。しかし、技術開発や特許管理を担ってきた部門が、実際に事業開拓を担うことは、その資質や経験値をかんがみても容易なことではありません。それにもかかわらず、探索領域の事業創出は、技術や特許を保有する部門が中心にならざるを得ないというジレンマを抱える企業は少なくありません。こうした課題を解決する手段の1つとして注目されているのが「両利きの経営」です。

今回お話を伺ったのは、ガラス、化学品、セラミックス、電子部品などを製造・販売する素材メーカー、AGC株式会社の技術本部 先端基盤研究所長を務める海田由里子氏です。両利きの経営におけるカギとなる研究開発と事業をつなぐための新事業創出体制や、事業開拓部の役割についてお聞きしました。

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「AGCを支える、事業と技術をつなぐ “両利きの研究開発”」

入社後すぐの製造実習で現場のリアルを知る

大橋:はじめに、海田さんがこれまでAGCでどのようなキャリアを歩んでこられたか、お聞かせください。

海田:私は1993年にAGCに入社し、キャリアの大部分をR&Dで過ごしてきました。入社後すぐに工場に配属され、半年間の製造実習を経験しました。当時、現場で働く方々の「自分たちがプラントを守るのだ」という誇りに触れ、いっきに視野が広がったという鮮明な記憶があります。

AGC株式会社 技術本部先端基盤研究所長 海田由里子氏

海田:半年の工場実習後、コーポレート研究所に配属されました。そこで携わったのは、新製品の立ち上げでした。試作から量産へとスケーリングする過程を事業部の方々と一緒に経験しましたが、研究開発の成果をいかに事業につなげるかを体感できた、とても貴重な機会となりましたね。

大橋:入社後すぐに担当されたのが、さっそく新製品の立ち上げだったわけですね。その後はどんなことに取り組まれたのでしょうか?

海田:その後もいくつか新製品開発に取り組みましたが、成果にはなかなかつながりませんでした。ただ、あまり意に介することもなく、自分の好きな研究に没頭していましたね。

転機が訪れたのはその後です。エレクトロニクス事業を展開する関連会社に異動になったんです。ここでは当時、ガラスや無機物の設計をしていましたが、事業部トップの意向で有機の研究開発の機能を立ち上げることになったということで、私は設備を揃えたり、人材育成をしたりする役割で立ち上げに参画しました。

大橋:「転機」とおっしゃいましたが、それまでと一番変化したポイントはどこだったのですか?

海田:コーポレートの研究所時代は、技術、出口製品含め、ある意味自分で何を研究していても許されたんです。けれども、事業部では当然ながらやること、つまり技術と出口製品がある程度決められていました。当初はそれが寂しく感じられたものの、「事業化目的のある開発」のおもしろさを、改めて実感することができたんです。それがわたしにとっては大きな転機でしたね。

その後はまたコーポレート研究所に戻り、光学デバイスの部材の開発に取り組みました。テーマリーダーや研究所の開発リーダーを経て、事業開拓室(当時)へと異動しました。

新事業開拓室で学んだ“持続可能な事業”の条件

大橋:事業開拓室ではどのような業務を担当されたのでしょう。

マーケットワン・ジャパン合同会社 執行役 ビジネス開発管掌 大橋慶太

海田:新商品であるガラス透明スクリーンの事業化検討に取り組みました。製品のコンセプト立案、試作、お客様先への訪問まで、いわばプロジェクトマネージャーとしての役割を担っていました。製造設備を持たなかったので、外注にも挑戦し、経験豊富な先輩にやり方を教えてもらいながら実務を覚えていきました。

新事業の開拓は、最終的にどの事業部が引き取り手になるかを想定しながら進めますが、中には明確な受け皿がないテーマもあります。その場合は事業部の技術トップにプレゼンをするなどして、引き取り手を探すこともありました。

大橋:5年、10年先まで黒字化が見込めなくても事業化を進めるのでしょうか。

海田:そうです。当時の事業開拓室では、研究所の有望なテーマを拾い上げて事業化し、事業部に橋渡しする役割を担っていました。そこで学んだのは、「良い製品をつくるだけでは事業化は成立しない」ということです。製品やマーケティングだけでなく、競合や市場動向まで見据えなければ持続可能な事業にはならないんです。

事業化のカギとなるのは、ニーズを拾い上げる顧客密着性と、優位性を維持し続ける力。例えば、コストを下げる余裕があるかどうか。そう考えると、外注頼みの構造では難しい面もあると感じました。

大橋:新事業は競合が「できないこと」ではなく、「やりたくないこと」を目指すべきだという話もありますね。

海田:まさにその通りで、それは会社のあり方そのものにも関わる話です。AGCは売上規模や製造キャパシティで世界一と言われています。今後は、キャパシティから利益へ視点を転換していくことも重要だと考えています。

大橋:なるほど。事業開拓室での経験を経て、その後はまた研究所に戻られたのでしょうか。

海田:はい。部長として研究所に戻り、1年後にアメリカへの赴任を命じられました。渡米後は、オープンイノベーションという枠組みの中で、事業部の製品を海外に売り込んだり、アカデミアとの協業テーマを探したりと、幅広く取り組みました。うまくはいきませんでしたが、スタートアップ投資の起案にも挑戦しました。4年半のアメリカ勤務を経て帰国し、技術本部企画部長を経て、現在はコーポレート研究所の所長を務めています。

新規事業のネタを見極める“目利き力”を磨け

大橋: ここからは、AGCが両利きの経営を導入した背景についてお聞かせください。

海田:当社では2010年に収益がピークを迎えた後、4年連続で減収減益となりました。これを受け、ディスプレイ事業に依存した一本足打法を脱却するため、2015年に既存事業を「コア事業」と「戦略事業」に分け、両利きの経営を掲げたのです。私が所属していた事業開拓室は、新事業創出のためのインキュベーションを担うことになりました。

両利きの経営とは、「コア事業」と「戦略事業」に分け、同じ会社の中で、現在の既存事業と将来の探索事業を同時に追求する経営で、既存事業を深掘りする能力(Exploit)と新しい事業機会を探索する能力(Explore)を両立させる経営方針です。設備や人材という会社の資産を活かして利益を上げ、その一部を会社の成長に再投資することも一つの重要な施策です。

ポートフォリオ改革は徐々に成果が出始めていますが、一方で、小さな「両利きの経営」が乱立し、探索のネタが分散してしまう課題も見えてきました。今後はよりインパクトな大きい有望なテーマが集まるように、事業開拓部のパイプラインを拡充する必要があると考えています。

大橋:新事業を社内だけで生み出すのは、やはり難しいですよね。

海田:そうですね。探索に使っている資金をM&Aに使い、新事業を買収するというやり方もありますし、どちらがいいのか、正解はないと思っています。アメリカでは自前の基礎研究を持たず、大学やベンチャーが生み出した事業のネタを買収するモデルが主流です。私も、「ネタは社外で調達し、自社はスケーリングに集中する」という考え方はオプションの一つと考えています。

大橋:苦手なことに時間を割くより、得意分野に集中して事業を伸ばすという考え方ですね。

海田:はい。そのために必要なのが目利き力です。どのスタートアップと組み、自社のどのアセットを掛け合わせればシナジーを最大化できるか。そのシナリオを描けるかどうかが今後のカギになると考えています。

探索のカギとなるのはインキュベーション機能

大橋:着想から育成までをコーポレートで行い、スケーリングの段階で初めて事業部に渡す形になったのは、2015年頃からでしょうか。

海田:両利きの経営を正式に示したのは2015年ですが、事業開拓室はそれ以前の2011年に設置されています。また、AGCの事業拡大の歴史は両利きの経営そのものとも言えます。AGCにおける新事業創出の流れは大きく2つあります。1つは、お客様からのニーズで生まれるものです。事業部がお客様のニーズをキャッチしたら、多くの場合、事業部内のR&Dで開発が行われます。ただし、事業部単独ではリスクが高いものや、技術領域が多岐に渡る難易度の高いものはコーポレートR&Dに託されます。コーポレート側で事業の芽が出始めたら、直接事業部に戻すか、事業開拓部を経由して事業部に移行します。

大橋:もう一つのケースというのは?

海田:世の中のトレンドを起点にコーポレート研究所がバックキャスティングで着想するケースです。コーポレート研究所で構想した事業のネタを事業開拓部でスケーリングし、最適な受け皿を見つけて事業部に引き渡します。前者の場合はお客様からのニーズに基づいているので、成功確率が高く受け皿も明確です。一方、後者の場合はどの事業部が担うかといった受け皿が課題になることがあります。

海田:事業開拓部の役割は、こうした事業のネタに一定の資金を投入して、本当に事業化できるかどうかを見極めるインキュベーション機能を担うことです。いわゆる“死の谷越え”です。全社的な探索活動の中から筋のいいテーマを集めて育てていくことがミッションだと考えています。

現在は、100人ほどのメンバーで5〜6件の大きなテーマに取り組んでいます。技術開発は研究所が担い、事業開拓部はそのスケーリングや事業化を担当しています。

大橋:なるほど。R&Dが技術開発をして事業化後に事業部に戻す流れとは別に、技術開発と事業化のメンバーが一体となって取り組んでいるのですね。

海田:はい。技術側・事業側それぞれに中堅層を責任者に置き、育成にも力を入れています。研究所にいるとお客様と接する機会が少ないんですが、事業側の責任者と一緒にお客様先を訪問することで、単なる技術開発にとどまらない経験を積むことができます。

技術と事業の健全な対峙が、頑強な事業をつくる

大橋:事業をつくるには、モノをつくるだけでも、営業をするだけでも成り立ちません。マーケティングも含め、さまざまな機能が連携して初めて事業になりますよね。1つの部署に長くいると価値観が固定されてしまい、「それじゃ売れない」という視点でR&Dの提案を判断してしまうこともあります。その点、事業開拓部でやられているように、異なるバックグラウンドを持つ人たちがチームを組成して取り組む方法はとても興味深いです。

海田:そうなんです。技術と営業との健全な対峙が大切だと思っています。技術的に実現が難しいことでも、営業はお客様に言われたことをそのまま受けてしまいがちですよね。でも、それに食らいつくことで技術が進歩する。だから私はそれはとてもいいことだと捉えています。そこに健全に対峙しながら議論することで、本当に勝てる事業に育っていくのではないでしょうか。

もっと言うと、お客様は「機能」について要望されることが多いのですが、「構造」や「素材」まで指定するわけではありません。だからこそ技術者は、どんなソリューションが最適なのかを考え抜き、「お客様が求めているのは本当にこの機能なのか」を掘り下げていく必要があります。そのうえで、自分にとって有利な方向に誘導していく。それも技術者の重要な役割だと思うんです。

「報われる」研究とは、技術を産業につなげること

大橋:今のお話を聞いていると、事業化を見据えて技術を磨く姿勢が重要に思われます。

海田:その通りです。研究開発ではありがちなことですが、「誰でもできること」をやってしまうケースがあります。それでは競合に勝てません。最近は「サンプルを出せばいいでしょう」という温度感の人たちもいますが、私はそれに対しては「これでは事業にならない」と厳しく指摘します。事業として成立させるには、持続性すなわち継続的に収益を上げることが必要。だから、まず事業としてのゴールイメージを持ってからテーマに取り組むように伝えています。そうでなければ、いくら努力しても報われませんから。

大橋:企業において「報われる」とはどういうことだとお考えでしょうか。

海田:自分の技術が産業として世に出ることでしょうね。それを経験せずに終わるのは、少し寂しいことです。どんな小さなことでもいい、世の中で価値を認められ、対価をいただけるものを生み出してほしい。「いいね」なんて言葉はいくらでも引き出せるんですよ。でもそれだけじゃいけない。きちんとお金を払ってもらえることが肝心なんです。

海田:私自身、事業部の研究所時代に開発した製品が今でも売れ続けていて、「海田さんがつくったあの製品、今でも現役ですよ」と言われることがあります。そこから人脈が広がることもある。自分たちが開発した技術やコンセプトが世の中に受け入れられ、価値としてお金に変わる経験を、若い技術者たちにも味わってほしいですね。

両利きの経営を支える次の挑戦へ

大橋:今後の海田さんの展望や、挑戦されたいことについてお聞かせください。

海田:研究所としては、両利きの経営を支えるためにも、事業のネタをできるだけ膨らませていかなければいけないと考えています。製造業の根幹は「ものづくり力」です。収益力向上のためにも、プロセス革新を進めていきたいですね。

また、デジタル技術やAIの進化によって、ビジネス環境は変化しています。それらを活用し、リアルとバーチャルの両面で効率を高めていく必要があります。AIの進化によって、今後は言語の壁もなくなっていくでしょう。軸足を日本に置きつつ、人材のグローバル化を進めることも今後のテーマです。

さらに、自社の技術に固執せず、オープンイノベーションの意識を持つことも欠かせません。そのために、社内でのローテーションを積極的に行い、若い技術者たちが多様な経験を積みながら成長していく環境を作っていきたいと思います。

大橋: AGC社の両利きの経営については広く知られていますが、海田さんご自身のバックボーンから想いの強さに至るまで広くお聞きすることができ、とても意義のある対談となりました。

海田:私自身の経歴はそれなりに紆余曲折がありましたけど……、常に「今いる場所と今見える景色の中で、最大限をつくっていきたい」そんな想いに突き動かされてここまで来たのではないかと思っています。

大橋:本日は貴重な機会をいただきありがとうございました。

対談のまとめ

AGCは2010年代の業績低迷ディスプレイ依存の脱却を背景に、2015年頃から「両利きの経営(進化深化=既存事業の強化、探索=新事業創出)」を経営の中心方針に据え変革を進めてきました。変革の基本的な方向性として、既存事業で得た収益やアセットを次の成長に投資し、研究(着想と育成)と事業拡大(スケーリング)の役割を明確に分担することで「着想→育成→スケーリング」の中間(育成)を強化することに注力してきた。

育成フェーズは研究だけでは埋められない「死の谷」を越える役割を担うために、事業開拓部がインキュベーション機能を担い、R&Dとカンパニー(事業部)の橋渡しを行う体制を整備しています。両利きの経営の重要性は広く浸透している一方、両利きの経営に企業全体として取り組めている企業は非常に少ないのが実情です。様々な課題に向き合い、一つ一つ乗り越えていく愚直ともいえる挑戦を続けるAGCの取り組みにふれることは、多くの企業にとって非常に示唆に富んだものだと改めて確信を深められた対談でした。(大橋慶太)

プロフィール

海田 由里子
AGC株式会社 技術本部先端基盤研究所長
旭硝子(現AGC)株式会社入社。中央研究所 高分子材料技術ファンクションリーダー、事業開拓室シニアマネージャー、商品開発研究所 事業創出グループ リーダー
AGC Business Development Americas President/GTNET-GM、技術本部企画部 戦略企画グループシニアマネージャー、執行役員 技術本部企画部長、2025年1月より現職 

大橋 慶太
マーケットワン・ジャパン合同会社 執行役 ビジネス開発管掌
BtoB企業のマーケティング・コンサルティングに15年以上従事。大手製造業向けに、マーケティングを軸にした新規事業探索、デジタルトランスフォーメーション等の戦略立案と実行支援のアドバイザリ役を務める一方、日本におけるマーケットワンの事業開発を管掌する。日本アドバタイザーズ協会 デジタルマーケティング研究機構BtoBマーケティング委員会の委員長。

Text : Tomoko Miyahara
Photo : Nanako Ono
Edit : Tomoko Hatano