昨今、外部からの即戦力採用だけではなく、既存人材の育成を通じて組織の対応力を高めていくことが、多くの企業にとって現実的な選択肢となりつつあります。
特に、両利きの経営の「探索活動」と呼ばれるこれまでにない領域や顧客への挑戦が求められる局面では、「育成の質」が成果に直結する場面が増えています。
その一方で「必要なスキルや知識が社内に定着しない」「新しい業務自発的が取り組まれず、“義務”としての対応になってしまう」といった、育成設計やモチベーションに関する課題は各所で多く見受けられます。
特に、実行期間が限定されている新規プロジェクトの場合、施策を成功に導いたとしても、育成方法に再現性がなければ、プロジェクトメンバーの入れ替わりなどによって取り組みの持続性が失われてしまいます。
こうした課題に対し、有効活用できるのが「マーケティング思考」です。マーケティング的考え方を人材育成に応用してプロセスを見直すことで、受け手の状態に応じた支援設計や行動促進の仕組みを整えられます。
本記事では、そんなマーケティングの視点から人材育成を再設計するための考え方と実践のステップについて、具体的に解説します。
マーケティングと人材育成の類似点
人材育成とマーケティングは一見異なる領域ですが、「対象者に対して価値を届け、行動を促す」という構造において、多くの共通点があります。マーケティング思考を「採用活動」に転用する恩恵とは何か?では、採用活動におけるファネル構造やターゲット設定との類似性について解説しました。
人材育成においても、同様のことがいえます。
マーケティングが顧客の課題や欲求に応じて適切なタイミングと内容で情報を届ける活動であるならば、人材育成もまた、育成対象者に対して知識や経験といった「価値」を提供し、行動変容を促す営みです。
たとえば、採用活動へのマーケティング思考の転用については、ファネル構造やターゲット設定といった考え方が有効だとされています。同様に、人材育成における「価値の提供 → 関係性の構築 → 行動の促進」というプロセスは、顧客を育てるマーケティングと極めて類似した構造を持ちます。
ピーター・ドラッカーは『現代の経営』の中で、「人々が協働し、一人ひとりの強みを最大限に発揮させることがマネジメントの役割である」と述べています。育成とは単なる知識伝達ではなく、相手の特性や課題を理解したうえで価値を届け、内発的な変化を引き出す営みです1。
この意味では、人材育成は「社内マーケティング」ともいえるのではないでしょうか。
マーケティング思考を人材育成に転用するベネフィット
マーケティング思考を人材育成に転用する最大の利点は、育成設計を「送り手主導」から「受け手起点」へと、意識的に転換できる点にあります。
従来の画一的な研修やOJTでは、育成対象者の経験値や理解度に対する配慮が不十分になりがちですが、マーケティングと同様に「誰に、いつ、どのようなかたちで価値を届けるか」を考えることで、設計の精度が大きく変わります。
たとえば、新領域に苦手意識を抱える中堅層には、段階的な情報提供と業務に紐づく実践の機会を組み合わせることで理解が深まりやすくなります。すでに一定の知識を持つ若手には、小さな裁量権を与えることで主体性を引き出すことも可能です。
受け手の状態や課題に応じた伝え方にシフトすることで、学習の定着や行動変容の確度が高まり、育成施策が実務成果へと結びつきやすくなります。
人材育成に応用できるマーケティング思考
ここからは人材育成に応用できるマーケティング思考の具体的な例を3つ解説していきます。
- ①:「ライトタイミング・ライトコンテンツ」のアプローチ
- ②:成長ステップを設計する「カスタマージャーニー」視点
- ③:行動を促し続ける「エンゲージメント維持」の設計
それぞれ個別に解説します。
①:「ライトタイミング・ライトコンテンツ」のアプローチ
マーケティングでは、情報やコンテンツを届ける際に「誰に・いつ・どのような形で伝えるか」という設計を重視する考え方があります。これが、いわゆる「ライトタイミング・ライトコンテンツ」のアプローチです。
人材育成においても同様で、育成対象者がどの状態にあるのかを見極めたうえで、適切なタイミングと内容を設計することが求められます。
たとえ発信側に意図があっても、受け手側にその価値を受け取る準備ができていなければ、行動変容にはつながりにくく、成果の実感が得られるまでに時間がかかる可能性があります。
その際には、育成対象者のモチベーションや課題意識を丁寧に把握しなければなりません。
マーケティングにおけるVoC(Voice of Customer)に相当する「育成対象者の声」を拾い上げることで、期待値のズレを調整し、対象者自身が自覚していなかった動機(顧客インサイト)に気づくこともあります。
②:成長ステップを設計する「カスタマージャーニー」視点
カスタマージャーニーとは、顧客が商品やサービスを認知し、比較・購入を経て、最終的に継続的な利用者やファンになっていく一連のプロセスです。マーケティングではこれを可視化し、それぞれの段階で適切な施策を設計します。
これを人材育成に置き換えてみると、新たな役割や領域に直面した際、初期の「認知・理解」フェーズから始まり、必要な知識やスキルを獲得して実務に挑戦する「実践者」の段階を経て、最終的には周囲に影響を与える「推進者」として成長していくと捉えられます。
このように育成プロセスを段階的に定義することで、それぞれの成長フェーズに応じた支援や役割設計が可能になります。
たとえば、初学者に対していきなり成果責任を一任するのは負荷が大きすぎますが、実践者に小規模な施策を任せる、あるいは推進者に周囲への知識共有を求めることは、段階に応じた適切なチャレンジになるでしょう。
こうした成長の段差を設計し、各段階でマネジメント層と対象者のタッチポイントを整理することで、無理なく育成の深度と広がりを確保できます。
③:行動を促し続ける「エンゲージメント維持」の設計
マーケティングにおける顧客エンゲージメントの維持に関する考え方も参考になります。マーケティングでは、チャネル戦略を用いて継続的な関係維持を図ることでファン化を図ることもありますが、人材育成では育成対象者のモチベーションをいかに維持し、学習と行動を持続させるかが成果に直結します。
単に知識を伝えるだけではなく、「行動を続けたくなる環境」をどう設計するかが大切なのです。
一例をあげると、育成プログラムの中に小さなチェックポイントや実践課題を組み込むことで、成功体験を段階的に積み上げていけます。こうしたスモールステップの設計は、過剰なプレッシャーを与えることなく、成長の実感を与えやすくなります。
ほかには、職種や役職に応じて異なる関心軸(例:研究開発部門ならユーザー価値、事業開発なら案件創出)を明示化し、それらを踏まえた学びのフレームやワークショップを提供することで、次のアクションに対する具体的なビジョンや意欲を引き出すことも可能です。
マーケティング思考を応用する際に解消すべき人材育成ならではの独自性
一方で、人材育成ならではの独自性も存在し、マーケティング思考をそのまま適用しようとした際に、意図した効果が得られない要因となり得ます。
具体的には、以下のような要素です。
- 関係性の非対称性とインセンティブのズレ
- 定量評価が難しい「成果」の定義の違い
- 個別最適化の限界と制度整合性の課題
次項より、個別にみていきましょう。
関係性の非対称性とインセンティブのズレ
マーケティングや採用活動では、「売り手」と「買い手」が基本的に対等な関係にあり、双方が自由に選択する権利を持ちます。しかし人材育成においては、マネジメント層が「売り手」、育成対象者が「買い手」と見立てられる場面であっても、両者の関係性は非対称であることが実情です。
新領域の取り組みが組織的要請で発足されている場合は特にそうですが、育成対象者が自発的に「学びたい」と選んでいるわけではなく、業務上の必要性や上位者からの要請によって参加しているケースも多くあります。
この構造の違いは、インセンティブにも影響します。マーケティングでは、買い手は自らの欲求や課題を解決する価値を求めて行動し、その対価として売り手は売上や利益を得ます。
一方で人材育成では、マネジメント層が得る“報酬”は「育成対象者の成長」「成果の発揮」ですが、その価値を育成対象者自身が実感できていない場合、学習行動は受動的なものになりやすくなります。
つまり、人材育成においてマーケティング思考を応用するには、このような「選択権の欠如」「動機の非対称性」を前提とした関係性をいかに設計し直すかが求められるのです。
定量評価が難しい「成果」の定義の違い
「成功の定義」についても、マーケティングと人材育成では見え方が異なります。マーケティングにおける「成果」は、購入率やリピート率、クリック率など、短期かつ定量的に把握しやすい指標で表現されることが一般的です。これにより、施策の効果検証や改善サイクルが高速に回るという利点があります。
一方で、人材育成における成果は定性的で主観を伴いやすい要素が多く含まれます(例:「行動変容」「スキル定着」「チーム内での影響力の発揮」など)。そのため、施策の効果を可視化するには時間がかかり、測定手法も多面的かつ丁寧な設計が求められます。
人材育成における成果の定義とそれを測る方法については、あらかじめ育成側・対象者側の双方で共通認識を持つ必要があります。
個別最適化の限界と制度整合性の課題
マーケティングでは、テクノロジーの進化とともに、MA (マーケティングオートメーション)などを使って顧客ごとに最適な情報や体験を届ける「パーソナライズ」の概念が急速に浸透しています。人材育成の分野でも、対象者の状態や課題に応じた支援設計が理想といえますが、実際にはさまざまな制約が存在します。
育成対象者ごとに個別最適化された制度設計やツールの導入を行うほど、他の制度との整合性や育成対象者間の公平性の担保が難しくなります。特定の対象者だけに支援が手厚くなっているように見える設計は、組織内の納得感を損なうリスクも孕んでいます。
また、育成施策の運用コストや設計工数も比例して増加するため、現実的には類似フェーズ・共通課題を持つ対象者を小グループに分類し、一定の汎用性と柔軟性を両立させる「セミ・パーソナライズ」のアプローチを採ることになるでしょう。
マーケティング思考を活用する際には、理想論にとどまらず、自社の組織構造や育成制度との整合性を踏まえた設計判断が必要です。
マーケティング思考も活用した人材育成の再設計ステップ
ここでは、人材育成を再設計するための実践の3ステップを紹介します。
- Step1:マネジメント層の自己変容
- Step2:業務内容の再編成
- Step3:評価制度の再設計
各手順の詳細について、順番に解説します。
Step1:マネジメント層の自己変容
人材育成にマーケティング思考を応用する際に、まず求められるのはマネジメント層自身の視点の転換です。前述したように、人材育成は「一方的に教えるもの」ではなく、育成対象者の状態や動機に応じて価値を届けることが大切です。
したがって、まずはマネジメント層が「受け手起点で設計する」姿勢を自らに取り入れる必要があります。
たとえば、育成対象者が能動的でないケースでは「対象者にどのレベルの知識・スキルを、いつまでに身につけてほしいのか」「その背景や成果のイメージを、相手がどの程度理解しているのか」などを掘り下げて考えてみます。
そのうえで、カスタマージャーニー的な育成対象者の成長ステップを描き、情報提供や役割付与のタイミングを調整するといった形です。
Step2:業務内容の再編成
マネジメント層の視点が切り替わったあとは、対象者の成長フェーズに合わせて業務内容を再設計するフェーズへと進みます。
マーケティングでいえば、認知・興味・購入と進むごとにタッチポイントや提供価値を変えるように、人材育成でも「初学者→実践者→推進者」というステップごとに業務の与え方を調整していきましょう。
「初学者には負荷を抑えたサポート業務や情報収集」「実践者には小規模なタスクのリーダーシップ」「推進者には他者育成や改善提案」といった役割を段階的に割り振ることで、無理なく成長と成果の接続を図ることが可能です。
Step3:評価制度の再設計
育成対象者が実務を担える段階に入り、業務のサイクルを自走できるようになってきたら、次に求められるのは、それに見合った適切な評価です。
現行の人事制度を見直すことは、マネジメント層の役割であり責任といえます。
とりわけ新領域の取り組みにおいては、成果が定量的に表れにくく、短期間で判断しづらいという特性があります。だからこそ、マネジメント層には評価制度の見直しを通じて、成長の過程や貢献の実態をきちんと捉える設計が求められます。
また、本人の成果だけでなく、チームや顧客への波及的な貢献まで視野に入れた評価を行うことで、取り組みに対する主体性や協働意識を引き出す後押しにもなります。
最終的には、こうしたフィードバックと貢献評価を、等級制度や報酬制度にも反映できるよう設計をアップデートしていく必要があります。
これは全社を巻き込んだ比較的大規模な改革となりますが、育成対象者の挑戦と成果を正当に報いる仕組みを整備することが、人材育成体制の再設計では大切なのです。
人材の「質的な強み」が競争力の源泉となる
ここまで人材育成にマーケティング思考を応用する手法を述べてきましたが、何よりも大切なのはマネジメント層と育成対象者が新たな学びを共有する関係にあることです。
新たな市場や顧客に挑む場面では、成果がすぐに表れないことも珍しくありません。そうした不確実性のなかで、仮説検証のプロセスを前向きに共有し、試行錯誤を肯定する文化が組織に根づいているかどうかが、育成の成果を左右します。
企業はさまざまなステークホルダーに対して利益貢献を求められるなかで、比較的不確実性の高い、振れ幅の大きい変数である「人」に対しての投資には、慎重にならざるを得ないのが実情でしょう。
しかし、「新しい価値の創造」を実現させるのは、紛れもなく「人」にほかなりません。日本の労働力人口の現況を鑑みる限り、今後は働き手の「量」ではなく「質」的強みが経営戦略を左右する未来が訪れるはずです。
元ネスレ日本社長兼CEOであり、マーケティング・マネジメントの権威者であるの高岡浩三氏は「経営とは、マネジメントではない。マーケティングである」と述べています2。
マーケティング思考とは、人を動かし、組織を前進させるための考え方です。その視点を育成の基盤に据えることは、価値創造を持続するための強固な戦略的選択といえるのではないでしょうか。
- P.F.ドラッカー『現代の経営』 [↩]
- AdverTimes.「経営とは、マネジメントではない。マーケティングである。——ネスレ日本 代表取締役社長兼CEO 高岡 浩三氏」 [↩]